co. jp/特記事項:1998年1月7日にサッカーコミュニケーションズ株式会社から商号変更。1998年2月1日、株式会社エスラップ・コミュニケーションズより営業権を譲受[2]。テンプレートを表示 この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 清水エスパルス(しみずエスパルス、Shimizu S-Pulse)は、日本の静岡県静岡市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 概要[編集] 1991年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市)[1]。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平[1]、練習場はエスパルス三保グラウンド[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する[1]。1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブ(オリジナル10)の一つで、10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス。 クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)[1]、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した[6] ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)[1]、パルちゃんの妹的な存在に当たる[7] こパルちゃん[1] である。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ[7]、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている[6]。 歴史[編集] クラブ発足の経緯[編集] 1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた[8]。選抜チームのオール清水(清水FC)はJFA全日本U-12サッカー選手権大会にて優勝8回を数え[9]、高校選手権では市内の学校(清水東・清水商・東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね[10]、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。 また、1991年には静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。[11] Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか[12]、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。[13] 1991年〜1992年(静岡県リーグ)[編集] 1991年[編集] 5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社、フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧、大榎克己、長谷川健太の“清水東三羽烏”をはじめ、初代主将となる三浦泰年や澤登正朗など地元出身の選手が加入した。[14] 1992年[編集] 6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている[15]。1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。 この年から清水日本平運動公園球技場(現在のIAIスタジアム日本平)をホームスタジアムとして使用し始める。 1993年〜1998年(Jリーグ)[編集] 5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージ第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。 1994年[編集] 1stステージは第5節から9連勝を達成、一時首位を走ったものの、国立での鹿島戦を境に失速、2位に終わった。FIFAワールドカップアメリカ大会にロナウド選手がブラジル代表として出場。クラブ所属選手では初のW杯出場となった。1stステージ終了後、エメルソン・レオンが選手と賄賂を行っていたことが発覚し、解任。後任の監督にロベルト・リベリーノが就任したものの、2ndステージは6位で終了。 1995年[編集] 元鹿島アントラーズ監督、宮本征勝が監督に就任。チーム初の日本人監督となった。1stステージはリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。2ndステージから、元イタリア代表FWダニエレ・マッサーロが加入。また鹿島から吉田康弘, サントス, 森岡隆三が加入、中盤まで優勝争いを演じた。また、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会でジュニアユースチームが初優勝を果たし、クラブ初のタイトルを獲得した。天皇杯では、ヴィッセル神戸に敗北した。シーズン終了後、宮本が監督を退任。 1996年[編集] 監督にオズワルド・アルディレス、ヘッドコーチにスティーブ・ペリマンが就任。9月25日、1996JリーグヤマザキナビスコカップにてPK戦の末に優勝。トップチームが悲願の初タイトルを獲得した。また、この年開催されたアトランタ五輪では伊東輝悦、白井博幸、松原良香がメンバー入り、伊東はブラジル戦で決勝のゴールを決めている。 1997年[編集] アルディレス体制2年目。固定背番号制が導入され、前年のレギュラーが一番つけていた背番号を優先的に与えた結果、森岡隆三の背番号がDFとしては珍しい11番をつけることとなった。1stステージは7位、2ndステージは6位となった。この年Jユースカップ初優勝、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会3連覇など、下部組織の活躍が目立った。 11月、運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズの経営危機が表面化。20億円を超える負債を抱え、実質的な親会社のテレビ静岡が運営からの撤退を表明した。31万人を超える署名と1500万円の募金を集め、地元清水に本拠を置く物流大手鈴与の子会社で出版業を手掛けていた「サッカーコミュニケーションズ株式会社」(1995年11月設立)が第三者割当増資を行い、これに静岡鉄道・静岡ガス・静岡新聞社・小糸製作所が応じて株式会社エスパルスに改組、同社が営業権を譲り受けることになった[16]。 1998年[編集] チームスローガン:Break Through 2月1日より新会社による運営がスタート。1998年W杯フランス大会の登録メンバーに、伊東輝悦、斉藤俊秀の2選手が選出される。チームは1stステージは13勝4敗で得失点差で2位。7月25日から8月22日にかけては6連勝1失点の成績を収め、8月のAFC月間最優秀チームに選ばれている。2ndステージ終了後、アルディレス監督を解任。天皇杯から、ペリマン監督体制となる。天皇杯は初の決勝進出を決めている。なお、ユースチームからGK野澤洋輔がトップチームに上がり、昇格第1号選手となった。 1999年〜2015年(J1)[編集] 1999年[編集] チームスローガン:dream stadium 1999 1月1日、天皇杯決勝は横浜フリューゲルスに敗れ準優勝。横浜フリューゲルスと横浜マリノスのチーム合併に伴い、この年のゼロックススーパーカップとアジアカップウィナーズカップ1999-2000の出場権を得ることとなった。また横浜マリノスから安永聡太郎、横浜フリューゲルスから久保山由清、ベルマーレ平塚から田坂和昭が加入し戦力を補強。 リーグ戦では1stステージは勝ち点4差で3位。2ndステージは中盤で8連勝しトップの座を譲らず、11月23日、横浜国際総合競技場に開催された横浜F・マリノス戦に勝利し、念願のステージ優勝を決めた。チャンピオンシップでは、最大のライバルジュビロ磐田にPK戦の末敗れた。アレックスがMVP、ベストイレブンに6選手、ペリマンが最優秀監督賞。 2000年[編集] チームスローガン:big mission 2000 AFC主催大会への初めての参加となったアジアカップウィナーズカップ1999-2000では準々決勝で安養LGチタスを破り決勝トーナメントへ進出。チェンマイでの準決勝ではバンコクバンクをPK戦の末に制すると、決勝のアル・ザウラー戦では池田昇平のゴールにより1-0で勝利。初めてアジアのタイトルを獲得した。アジアスーパーカップはアジアクラブ選手権1999-2000優勝のアル・ヒラルとの間でのホーム&アウェイで行われ、1分け1敗でアジアチャンピオンには一歩届かなかった。J1リーグ戦は1stステージ3位、2ndステージは13位で終えた。J1リーグ戦終了後、ペリマン監督を解任し、ユース総監督だったゼムノヴィッチがトップチームの監督に昇格。ゼムノヴィッチ体制初の大会となった天皇杯は2大会ぶりに決勝に進出した。 2001年[編集] チームスローガン:Dynamic Soccer 2001 天皇杯決勝は鹿島に敗れたものの、ゼロックススーパーカップでは鹿島に3-0で勝利。前年度優勝チームとして出場したアジアカップウィナーズカップ2000-01は準々決勝でBECテロ・サーサナを制し準決勝に進出したが、大連實徳に敗れ3位に終わった。2002年のFIFAワールドカップ開催に伴い、国際試合対応の大規模なスタジアムが全国に建設される中、5月12日には静岡県内でのワールドカップ会場となるエコパスタジアムのこけら落としが行われ、延長の末に平松康平選手のゴールで勝利を飾った。J1リーグ戦は1stステージ、2ndステージともに4位。天皇杯は前年度に続き決勝進出した。 2002年[編集] チームスローガン:Orange Fantasia 2002 1月1日、3度目の決勝進出となった天皇杯決勝にてセレッソ大阪を延長で破り優勝。2月にはゼロックススーパーカップを連覇した。6月のFIFAワールドカップには森岡隆三、三都主アレサンドロ、戸田和幸、市川大祐の4選手が出場している。アジアクラブ選手権に出場する鹿島に代わり、第80回天皇杯準優勝チームとしてアジアカップウィナーズカップ2001-02に3大会連続で出場、全北現代との準々決勝でアウェイゴールの差で準決勝進出を逃した。また、この年からアジアクラブ選手権とアジアカップウィナーズカップが統合されて初めての開催となったAFCチャンピオンズリーグ2002-2003に第81回天皇杯優勝チームとして出場。予選ラウンドからの出場となり、ニュー・ラディアント、サウスチャイナに勝利し、グループステージ(準々決勝に相当)進出を決めた。J1リーグ戦では1stステージ7位、2ndステージ12位と振るわず、ゼムノヴィッチ監督が退任。 2003年[編集] チームスローガン:EXCITING FIELD 2003 大木武新体制でスタート。Jリーグ開幕に先立って大連で開催されたAFCチャンピオンズリーグ2002-2003のグループステージ(準々決勝に相当)は、大連實徳、城南一和、オーソットサパーとひとつの椅子を争うも勝ち残ることはできなかった。ヤマザキナビスコカップはベスト4まで進出。J1リーグ戦は年間11位に終わった。11月29日、大木監督を解任し行徳浩二が監督に就任。天皇杯は準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出できなかった。 2004年[編集] チームスローガン:HARD & ATTACK 2004 アントニーニョ監督体制でスタート。手腕が期待されたが、家族の看病などを理由に、1stステージ最終戦となった市原臨海競技場での市原戦後に辞意を表明。石崎信弘ヘッドコーチが監督昇格となった[17]。アラウージョ、チョ・ジェジンが攻撃面で奮起するものの、リーグワースト5位の53失点を喫し、J1リーグ戦は年間14位となった。シーズン終了後、翌年も石崎監督を続投することが決まっていたが、サポーターから不満が噴出し、その年限りで石崎は監督を退任した。 この年開催されたアテネ五輪には黒河貴矢がメンバー入りを果たした。長年ゴールマウスを守ってきた真田雅則が現役引退。 2005年[編集] チームスローガン:2005 かける想い 長谷川健太が初めて監督に就任。初年度となった2005年シーズンは15位で残留を決めるなど低迷が続いた。その間にスカウトの充実をはかり、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図った。2005年度にデビューした枝村匠馬、兵働昭弘、青山直晃ら若手選手が主力として定着、同年の天皇杯で準優勝の成績を収める。 2006年[編集] チームスローガン:かける想い S-PULSE 2006 長谷川体制2年目。2006年は新人の藤本淳吾が主力として定着、青山直晃が日本代表に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。日本A代表経験者の市川、森岡隆三、伊東輝悦、斉藤俊秀らも復調して開幕から上位につけ、4位でシーズンを終えた。この年、藤本が新人王を獲得。 2007年[編集] チームスローガン:かける想い S-PULSE 2007 長谷川体制3年目。中断明け以降の20節から25節まで6連勝をマークしたが、その後のアウエイで連敗し優勝争いから後退。年間4位となった。この年、伊東輝悦が同一クラブ所属としてJリーグ初となるJ1通算400試合を達成。 2008年[編集] チームスローガン:WE BELIEVE 2008 長谷川体制4年目。リーグ戦は序盤の3連敗が響き、一時は降格圏の順位となったものの、若手の成長もあって終盤追い上げ、年間順位は5位となった。ヤマザキナビスコカップは決勝に進出。大分トリニータと対戦、0-2で敗戦。 2009年[編集] チームスローガン:WE BELIEVE 2009 長谷川体制5年目。横浜FCから太田宏介を、浦和から永井雄一郎を、名古屋からフローデ・ヨンセンを獲得し大型補強に成功。札幌に期限付き移籍していた平岡康裕も復帰。その一方で、森岡隆三、高木和道、矢島卓郎、西澤明訓などが移籍。 開幕戦の大宮戦、スコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。夏場までは引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間にナビスコカップのホームゲームで山形に敗れている)。9月29日に長谷川健太の監督続投決定。10月3日第28節広島戦で1対1で引き分けるも得失点差で鹿島を上回り首位に立ったが、第29節の負ければJ2降格となる大分にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節にはFC東京戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1-2での黒星になるなど、優勝はおろかACL出場権も得られず最終順位は7位。天皇杯は準決勝で名古屋に敗れた。 2010年[編集] チームスローガン:THE CONFIDENCE 長谷川体制6年目。新戦力として千葉からボスナーを、VfLボーフムから小野伸二を獲得。柏に期限付き移籍していた杉山浩太、東京Vに期限付き移籍していた廣井友信が復帰、ユースチームから鍋田亜人夢が加入。第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝を達成。最終順位は6位、シーズン終了後長谷川監督退任(事実上の解任)。天皇杯で準優勝。 2011年[編集] チームスローガン:Spirit Up! 長谷川健太の後任監督にはイラン代表監督(当時)のアフシン・ゴトビが就任。東京Vから高木俊幸、湘南から村松大輔、韓国Kリーグ水原から元日本代表高原直泰、ギリシャ・スーパーリーグイラクリスから元日本代表小林大悟、滝川第二高校から樋口寛規、AリーグシドニーFCからオーストラリア代表アレックス・ブロスケをそれぞれ完全移籍で獲得した。 その一方で、伊東輝悦、市川大祐が甲府、青山直晃が横浜FM、西部洋平が湘南へ、フローデ・ヨンセンがオッド・グレンランドへ、それぞれ契約満了後に移籍した。主力であった藤本淳吾が名古屋へ、本田拓也が鹿島へ、岡崎慎司がVfBシュトゥットガルトへ、兵働昭弘が柏へ移籍。スーパーサブであった原一樹が浦和へ移籍、前年のチームは大刷新された。クラブ生え抜きの伊東・市川、前シーズンリーグ戦32試合に出場した西部を含む主力の相次ぐ放出劇は2010年度の赤字転落に伴う人件費圧縮の必要性が背景にあったものだが、このことが結果的にフロントと選手の間に不信感を生じさせ、後年の主力の相次ぐ退団劇や低迷の要因の一つとなったと伝えられている[18][19]。 開幕戦の柏戦で0-3で大敗したが、小野、高原などの活躍もあり、その後は6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたが、第6節C大阪、第19節広島、第20節新潟と夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。8月に北京五輪オランダ代表のDFカルフィン・ヨン・ア・ピンと元スウェーデン代表のフレドリック・ユングベリを獲得。終盤J2降格の決まっていた福岡に2点リードの状態から追いつかれて引き分けると、その後3連敗、守備に課題を残し、10位でシーズンを終了。 9月、GKコーチの真田雅則が死去。 開幕直後に発生した東日本大震災によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行い、アヤックス・アムステルダムと対戦。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)をオランダ赤十字を通して義援金として寄付[20]。 2012年[編集] チームスローガン:「一」 One Team, One Mission.
RISING! ゴトビ体制4年目。FCユトレヒトから高木善朗、町田から相澤貴志、MLSのD. C. ユナイテッドからカナダ代表のヤコヴィッチ、1. FCケルンからスロベニア代表ノヴァコヴィッチを完全移籍で獲得。長沢駿、樋口寛規、柏瀬暁が期限付き移籍から復帰。 一方で、橘章斗が退団、髙原寿康が町田へ、伊藤翔が横浜FMへ、柴原誠が福島へ完全移籍、内田健太が富山へ、瀬沼優司、岡根直哉、イ・ミンスが栃木SCへ、八反田康平が仙台へ、姜成浩が東京Vへ期限付き移籍(途中で期限付き移籍先が金沢へ変更)、林彰洋が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、犬飼智也、白崎凌兵の期限付き移籍期間が延長、C大阪へ期限付き移籍していた枝村匠馬は名古屋へ期限付き移籍、ラドンチッチが期限付き移籍期間満了で大宮へ移籍。 シーズン途中、村松大輔が徳島、樋口寛規が湘南、鍋田亜人夢が福岡へ期限付き移籍したが、ブエノが新加入、栃木SCへ期限付き移籍していた瀬沼優司が復帰。 シーズン序盤から中位から下位を低迷。7月23日のG大阪戦に敗れリーグ戦7戦勝ちなしとなった試合後の緊急ミーティングで、ゴトビ監督が選手に対して「君たちは私を辞めさせるために、わざと無気力な試合をしているのか」と発言したことで、それまで選手起用を巡ってくすぶっていた指揮官と選手の間の亀裂が決定的なものとなり[21][22]、7月29日付けでアフシン・ゴトビ監督を解任[23]。後任には清水生え抜きでユース監督の大榎克己が就任した。8月9日にホーム通算200勝を達成。大榎の就任後の後半戦はわずか4勝で17位まで順位を落とすが、最終節に甲府に引き分けてJ1残留を確定させた。最終成績10勝6分18敗の勝ち点36、順位は15位。 ナビスコ杯グループリーグ敗退、天皇杯ベスト4。 2015年[編集] チームスローガン:Heat Attack Express Beyond the Limit! 大榎体制2年目。GK杉山力裕が川崎から、GK碓井健平が千葉から、DF鎌田翔雅が湘南から、FW澤田崇が熊本からいずれも完全移籍(碓井は3年ぶりの復帰)。期限付き移籍していたDF内田健太が富山から、DF村松大輔が徳島から、DF犬飼智也が松本から、MF枝村匠馬が神戸から、MF八反田康平が仙台から、MF白崎凌兵が富山から、それぞれ復帰。DF水谷拓磨、MF宮本航汰、FW北川航也が清水ユースから昇格、DF松原后が浜松開成館高校から新加入。一方、GK相澤貴志が徳島へ、GK三浦雄也が長崎へ、DF廣井友信が金沢、DF吉田豊が鳥栖へ、DFイ・キジェがニューカッスル・ジェッツへ、FW高木俊幸が浦和、FWノヴァコヴィッチが名古屋へいずれも完全移籍。MF藤田息吹とFW瀬沼優司が愛媛へ、DFブエノは神戸へレンタル移籍、柏瀬暁が契約満了で退団。 2004年以来11年ぶりの2ステージ制となった本年では、1stステージ3勝4分10敗の勝ち点13の最下位とクラブ史上最低の成績となり、2ndステージ第5戦目後に成績不振を理由に大榎克己が監督を辞任[24]。後任に大分監督退任後にヘッドコーチに就任していた田坂和昭が就任。8月に鄭大世が完全移籍で、角田誠が期限付き移籍で加入したが、10月17日のセカンドステージ第14節仙台戦に敗れ、15位新潟がその日の夜の試合に勝利したことから年間順位16位以下が確定、クラブ史上初のJ2降格が決定した。2ndステージ第13節から、シーズン4度目の年間通算最下位となっていたが、同16節、同じくJ2降格が決定していた山形に勝利、2ndステージ2勝目を挙げると同時に年間通算勝点で山形に並び、最終節甲府戦で引き分け、同節で山形が敗れたことにより、年間最終順位で山形を抜き17位に終わった。シーズン終了をもって田坂が監督を辞任[25][26]。 2016年(J2)[編集] チームスローガン:RESTART NO GUTS, NO WIN.
前徳島の小林伸二が監督就任。J2降格に伴い、2020年まで5年強化計画を設定。1年目をプレーオフ進出でJ1復帰することに加え、主力多くの残留、出場機会減少の選手を期限付き移籍させ、選手の背番号を多く変更、選手育成などを目標に挙げた。 ピーター・ウタカが広島へ、櫛引政敏が鹿島へ、平岡康裕が仙台へ、村松大輔が神戸へ、宮本航汰が長崎へ期限付き移籍したほか、ブエノが鹿島へ、高木純平が東京Vへ、カルフィン・ヨン・ア・ピンが町田へ完全移籍。藤田息吹と内田健太が期限付き移籍先の愛媛へ、相模原へ期限付き移籍していた樋口寛規が福島へ完全移籍。瀬沼優司と高木善朗の期限付き移籍期間が延長した。 一方で、期限付き移籍していた角田誠と福村貴幸が完全移籍、川崎から6年ぶりに西部洋平が完全移籍で復帰、新潟から川口尚紀、広島からビョン・ジュンボンを期限付き移籍で獲得し、さらには東海学園高校から光崎伸が入団した。シーズン中には、徳島から長谷川悠、長崎から植草裕樹、仙台から二見宏志を完全移籍、広島からキム・ボムヨンを期限付き移籍で獲得。専修大学から飯田貴敬を特別指定選手で獲得。その一方で、水谷拓磨がFC今治へ、加賀美翔が藤枝へ期限付き移籍。 序盤戦はJリーグ参入後初めて戦うJ2での戦いに不慣れなことに加え、大前が負傷により長期離脱を強いられ、第2、3、6、9-11節終了時以外はプレーオフ圏外の7位以下になるなど低迷したものの、第20節終了時以降は第24節終了時を除き6位以上をキープ、特に第25節以降の18試合では15勝1分2敗で、年間勝点84の半分以上となる勝点46を挙げ上位を猛追、第33節ではJ1自動昇格圏の2位松本との直接対決に敗れ5位に後退、勝点差も7に広がったが、第34節からは連勝を重ね、第35節終了時に4位、第37節終了時に3位と徐々に順位を上げ、41節に松本と勝点で並び、得失点差で大幅に上回るため松本と入れ替わり遂にJ1自動昇格圏内の2位に浮上、最終節にも勝利し最終的には9連勝で札幌に次ぐ2位となり1年でのJ1復帰を決めた。第15節群馬戦、当時のJ2最多得点差となる8-0で大勝している。 2017年〜(J1)[編集] 2017年[編集] チームスローガン:FROM NOW ON!! WE ARE THE ONE.
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5㎞ 最寄りの住宅地へ800m 清水さくら(桜ケ丘)病院へ100m JR清水駅から徒歩3分 アイスタの改修・改築 静岡市 16㏊(このうち現スタジアムの敷地2. 3㏊) 改修であれば低コストの費用で抑えられる可能性がある 駅や市街地の交通アクセスが悪い 土砂災害や津波被害がないため液状化現象の発生については不明 次郎長通り商店街へ3. 3㎞ ベイドリーム清水へ2. 1㎞ 最寄りの住宅地へ150m 市立清水病院へ700m いづれもJR清水駅から 徒歩:1時間11分 路線バス:27分 タクシー:13分 (参考)貝島スポーツ広場 民有地(現在は野球場) 6. 1㏊ 液状化現象の発生は不明 次郎長通り商店街へ6. 2㎞ ベイドリーム清水へ4㎞ 最寄りの住宅地へ750m 徒歩:1時間36分 路線バス:39分 タクシー:18分 ユニフォーム[編集] ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング FP(1st) オレンジ FP(2nd) ブルー FP(3rd) 白 GK(1st) 緑 GK(2nd) FP 1st FP 2nd FP 3rd GK 1st GK 2nd クラブカラー[編集] エスパルスオレンジ クラブカラーのオレンジは、静岡県の名産であるミカンの色であることに加え、喜び・希望・若さ・前進・元気などをイメージさせることに由来[2]。 当初清水市(現:静岡市)が港を中心として発展してきた街であること、市内のサッカー強豪高校が青系統のユニフォームを使用していることなど、市民には青が馴染みのある色であったため青系が検討された。しかし、Jリーグ創設時の10クラブに青系統のクラブが既に多数(横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ガンバ大阪)あったことから差別化を図ることや各クラブ間の色のバランスをとるために別の色を検討した結果、オレンジがメインとなった。なお、2013年の2ndユニフォームにクラブとして初めて青を採用している。 Jリーグ開幕以降、新潟および大宮が1999年にJ2リーグに加入するまで、Jリーグでオレンジをメインとするクラブは無かった。現在は山口、愛媛、長野など、オレンジをチームカラーとするクラブは複数ある。 デザイン[編集] 1992年クラブ発足時、既存のユニフォームとの差別化を図り安部兼章にデザインを依頼。「世界へはばたくクラブ」の思いから、世界地図を取り入れたユニフォームを採用し2006年まで継続された。2007年のプーマの世界戦略モデルユニフォーム導入にともない一旦消滅したが、2012年から2016年シーズンの間採用された[39]。(2014年シーズンは背面にプリント) 2013年シーズンの2ndユニフォームには、静岡の象徴でもあり、エスパルスのクラブハウスにほど近い「三保の松原」を含む「富士山」が世界文化遺産登録に登録された事を記念し、「富士山柄」を採用。 タイトル獲得クラブだが、タイトル獲得を表す星をユニフォームに入れていない[注 4]。 スポンサー[編集] ユニフォームスポンサー[編集] 掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考 ユース[40]スポンサー名 胸 鈴与 Suzuyo 2006年 - 2003年途中 - 2004年は袖 日本航空 JAL 鎖骨 タイカ Taica 2018年8月 [41] - 左側に表記2017年7月 - 2018年はパンツ アイ・テック ITEC 2018年4月[42] - 右側に表記2018年4月 - 2021年は『ITECITEC CORPORATION』表記 背中上部 アイエイアイ IAI 2016年 - 江崎グリコ Glico 背中下部 エス・トラスト S-TRUST 2018年 - 袖 2006年 - 2010年2013年 - 1992年 - 2005年は胸2011年 - 2012年はパンツ パンツ前面 CambodiaKingdom of Wonder 2021年 - パンツ背面 駿河技建 2022年 - ユニフォームサプライヤーの遍歴[編集] 1992年 - 1996年:リーグ戦はミズノ、カップ戦はプーマ 1997年 - 現在:プーマ 歴代ユニフォーム[編集] 1992 1993 - 1996 1997 - 1998 1999 - 2001 2002 - 2004 2005 - 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022 - 1993 1994 - 1996 2021 - FP Other 1992 - 1996CUP 1st 1992 - 1996CUP 2nd 2016超ドSシリーズ 2017超ドSシリーズ 2018Limited 2019 清水港開港120周年記念 2020Limited 2022 3rd - 歴代ユニフォームスポンサー表記[編集] 年度 箇所 サプライヤー 鎖骨左 鎖骨右 解禁前 glico HONEN - PUMA Mizuno / PUMA 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 豊年 2003 豊年 / Suzuyo 2004 2005 star☆ THE 3RDPLANET 2006 CRS SAN-AI アウトソーシング! YAZAKI - / 星光社印刷 - / 生きる元気、リハビリで。R&Oリハビリ病院グループ - / Taica - / ITECITEC CORPORATION ITECITEC CORPORATION 2022 JALによる広告掲出[編集] この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2013年4月) 日本航空(JAL)によるユニフォームの胸部分への広告掲出(ゼッケンスポンサー)は他のクラブの先駆けとなるものであったが次のような逸話がある。 Jリーグ初年度参加の10クラブが発表された頃、日本航空宣伝部にいた欧州サッカー通の社員が次のようなことを考えた。 「欧州サッカーでは80年代からゼッケンスポンサーが始まった。日本で始まるプロサッカーの中に清水FCというクラブがある。他の9クラブは企業クラブだから胸に親企業の社名・商品名を入れるだろう。清水はどうするのか。ひょっとしたら空いているのかもしれない。空いているんだったら買いに行けば面白いんじゃないか…」 1991年5月、清水FC代表に了解を取り付け、クラブ側営業担当と面会した。クラブ側営業担当は当初は「売りもしないのに勝手に日本航空が買いに来た」と面食らったが、「こういう商売もあったのか」と興味を持ち、水面下で話は進んでいった。 しかし1991年9月19日、日刊スポーツ紙に「JAL 清水エスパルスを援助」と大見出しですっぱ抜かれてしまう。直属の上司からは「どこから漏れたのかはわからないが、漏れるような話じゃダメだな。あきらめろ」と撤退を勧告された。またこのスクープによって「ゼッケンスポンサー」という広告の魅力に気付いた大企業は各クラブとの交渉を開始。 「日本初のゼッケンスポンサー」を考えた日航の宣伝部員は「このままではアイディアを他企業に横取りされてしまう」とノイローゼになり、退社をも考えたが、清水側の営業担当の笑顔に励まされた。 実は日刊スポーツ紙のスクープ以来、清水エスパルスには日本航空以外の企業からの売り込みがあった。しかし清水側は最初にゼッケンスポンサーの話を持ちかけた日本航空とその担当者に敬意を表し、他企業からのゼッケンスポンサーの申し出を断り続けていた。 1992年2月、日航の宣伝部員は再度上司にB4判5枚にも上る企画書を提出。企画書には協賛主旨として企業利益の社会還元、継続的な露出などの他に「ライバル企業である全日空対策(初年度参加チームのAS横浜フリューゲルスの親会社)としてJリーグにおける全日空のイメージ独占を阻止できる」「JAL対ANAとして注目を集める中、清水FCは全日空FCに勝てる可能性は非常に高いクラブ」「プロクラブ所有と比較して十分の一以下の費用」、更には移籍可能性のある選手としてスーパースター・カズや北澤の名前を勝手に盛り込んだ。 数々の障害をはねのけ、1992年5月16日、清水エスパルスは日本航空とのスポンサー契約を結んだ。 日本航空の機内ではエスパルスの勇姿がビデオに映し出され、機内誌には毎号選手紹介の特集ページが組まれ、空港には「頑張れ!エスパルス」のポスターが貼られ、各都市の繁華街にある「JALプラザ」ではJAL・エスパルスグッズが販売されるようになった[43]。 2010年1月19日にJALが会社更生法を申請し、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続してスポンサードが行われてきた事に敬意を表し、それ以降はクラブ側がJALに対し無償で広告スペースを提供。 アカデミー[編集] 清水エスパルスユース[編集] 年 高円宮杯U-18リーグ Jリーグユース選手権大会 クラブユース選手権 予選敗退 ベスト8 優勝 グループリーグ敗退 3位 準優勝 1回戦敗退 5位 1ラウンド敗退 6位 4位(東海) 予選リーグ敗退 準優勝(東海) 決勝T 1回戦 6位(東海) ベスト8位 決勝T 2回戦 3位(イースト) 5位(イースト) 決勝T 1回戦敗退 2位(イースト) 決勝T 2回戦敗退 ラウンド16敗退 6位(イースト) 清水エスパルスジュニアユース[編集] 高円宮杯U-15リーグ JFAプレミアカップ ベスト16 準々決勝敗退 ベスト16位 2回戦敗退 準決勝敗退 3位 出資会社[編集] 関連施設[編集] フットサル施設[編集] エスパルスドリームフィールド (フットサル施設) エスパルスドリームフィールド清水 エスパルスドリームフィールド静岡 エスパルスドリームフィールド富士 エスパルスドリームフィールド藤枝 エスパルスドリームフィールド駿東 店舗[編集] S-PULSE STORE(旧 エスパルスドリームハウス清水) S-PULSE STOREスタジアム店(ホームゲーム開催日のみ開店) 決算[編集] 清水エスパルスの決算は、つぎのとおり。 損益[編集] リーグ 収入 広告料 入場料 配分 その他 費用 事業費 人件費 管理費 利益 純利益 J1 3, 077 1, 150 469 270 1, 188 3, 170 2, 682 N.
11/6(土)北海道コンサドーレ札幌戦 スタジアムアクセスのお知らせ11/6(土)北海道コンサドーレ札幌戦 スタジアムアクセスのお知らせ ©︎︎︎S-PULSE 11月6日(土)に行われる2021明治安田生命J1リーグ第35節 北海道コンサドーレ札幌戦(14:00キックオフ@IAIスタジアム日本平)のスタジアムアクセスについてご案内いたします。 スタジアムアクセス お車をご利用の方 IAIスタジアム日本平周辺に7か所の駐車場をご用意しております。駐車場をご利用の際は"パルチケ"にて駐車券をご購入下さい。ご利用可能時間はキックオフ4時間前~試合終了後2時間後までとなります。※『ノダ』のみキックオフ3時間半前~試合終了後1時間半後まで スタジアム駐車場 【価格】2, 000円 スタジアム駐車場(各種バス用) 【価格】3, 500円※大型バス・中型バス・マイクロバス専用 日本平さくら公園駐車場 〒424-0911 静岡市清水区宮加三927-2(MAP)【価格】2, 000円 【場外】日立体育館 〒424-0927 静岡市清水区新緑町4 (MAP)【価格】1, 000円 【場外】ノダ 〒424-0906 静岡市清水区駒越北町13(MAP)【価格】1, 000円【備考】北駐車場が満車の際はスタッフが南駐車場をご案内いたします。また、工場敷地内となるため、駐車場内ならびに駐車場に出入りする道路は『禁煙』『火気厳禁』となります 【場外】南新開製材蔵置場 〒424-0911 静岡市清水区宮加三546-1 (MAP)【価格】1, 000円 【場外】日東富士製粉 〒424-0924 静岡市清水区清開3-1-18 日東富士製粉(株)敷地内 (MAP)【価格】1, 000円 【場外】清水港湾エリア 〒424-0922 静岡市清水区日の出町8 (MAP)【価格】500円 駐車場周辺や駐車場内では係員の指示に従ってください。車両に関わる事故・盗難・損傷については保証いたしかねますので、予めご了承ください。また、周辺道路及び私有地への違法駐車や迷惑駐車、送迎での一時駐車による車両通行の妨げは、絶対におやめください。スタジアム周辺を通行する際は、周囲の歩行者に十分に注意いただき、安全運転をお願いいたします。 ■パーク&ライドスタジアムに向かう道路の混雑解消と公共交通機関の利用促進を目的として『パーク&ライド駐車場』をご用意しております。ぜひご利用ください。 エスパルスドリームプラザ 〒424-0942 静岡市清水区入船町10-20【駐車料金】ホームゲーム開催日のみ普通車が上限800円で駐車可能※対象駐車場はP1駐車場のみ【営業時間】24時間【備考】ホームゲーム開催日が土日祝の場合、1Fインフォメーション(営業時間10:00~22:30)にて当日の観戦チケットと駐車券をご提示下さい。 清水マリンパーク 〒424-0943 静岡市清水区港町10【駐車料金】普通車…最初の1時間200円 以後30分毎100円バス…最初の1時間600円 以後30分毎300円 タクシーをご利用の方 IAIスタジアム日本平内バスロータリーまでご入場が可能です。なお、お帰りの際はIAIスタジアム日本平より徒歩約8分の『JAしみず(集出荷場前)』からご乗車ください。スタジアム内にタクシーをお呼びすることはできませんので、予めご了承ください。※状況によってはバスロータリーまでのご入場ができない場合もございます JR清水駅西口 【距離】約5.
ゴトビ体制2年目。 クラブ創設20周年のコレオグラフィー ~第17節 川崎戦にて~ 補強は、大分から姜成浩、甲府から吉田豊、ROCシャルルロワ=マルシェンヌ(ベルギー)から林彰洋、FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)からジミー・フランサが完全移籍で加入、犬飼智也、河井陽介、八反田康平、柏瀬暁、白崎凌兵、李記帝が加入。ユース登録の石毛秀樹が2種登録。一方で太田宏介がFC東京、ボスナーが水原三星ブルーウィングスへそれぞれ完全移籍、永井雄一郎が横浜FC、木島悠が大分、山本真希が札幌、児玉新がC大阪、岡根直哉が山形、竹内涼が北九州へ期限付き移籍、熊本へ期限付き移籍していた長沢駿は京都、新潟へ期限付き移籍していた武田洋平はG大阪へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍の廣井友信の期限付き移籍期間が延長。 1月、2012アジアスーパーチャレンジカップに出場して準優勝。3月15日、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による21世紀のアジアクラブ・ランクで21位となった。Jクラブの中では、G大阪、鹿島、浦和に次いで4位。 リーグ戦、第10節終了時点2位、第11節セレッソ大阪戦から第19節横浜F戦まで9戦勝利なし(4分5敗)と失速する。シーズン途中に小野伸二がウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC、アレックスがアル・アインFC、辻尾真二が広島、岩下敬輔がG大阪、枝村匠馬がC大阪、橘章斗が松本へ移籍、ジミー・フランサが東京Vへ期限付き移籍した一方、三吉聖王や金賢聖、強化指定選手として筑波大学の瀬沼優司が加入。第30節終了時点で4位につけていたが、その後、1分け3敗と4戦未勝利となり最終順位は9位。 ヤマザキナビスコカップは決勝で鹿島に1-2で敗れて準優勝。石毛秀樹がニューヒーロー賞選出。 2013年[編集] チームスローガン:One team, One mission. FORWARD! ゴトビ体制3年目。愛媛FCから内田健太、札幌から髙原寿康、高木純平、カタール1部のアル・アラビからバレーを完全移籍で獲得。イ・ミンス(湘南)、樋口寛規(FC岐阜)、橘章斗(松本山雅)、岡根直哉(山形)、竹内涼(北九州)、廣井友信(熊本)が期限付き移籍先から復帰、三浦弦太、六平光成、藤田息吹、加賀美翔が新加入。 大前元紀がドイツ・ブンデスリーガのフォルトゥナ・デュッセルドルフへ、高原直泰が東京V、山本海人が神戸、碓井健平が千葉、小林大悟がMLSのバンクーバー・ホワイトキャップスへ移籍。広島へ期限付き移籍していた辻尾真二が大分、G大阪へ期限付き移籍していた武田洋平がC大阪、岩下敬輔が期限付き移籍先のG大阪へ完全移籍、姜成浩が京都へ期限付き移籍、三吉聖王、東京Vへ期限付き移籍していたジミー・フランサ、金賢聖が退団、京都へ期限付き移籍していた長沢駿が松本へ期限付き移籍、C大阪へ期限付き移籍している枝村匠馬の期限付き移籍期間が延長。 シーズン中、バレーが中国スーパーリーグの天津泰達足球倶楽部へ完全移籍、林彰洋が鳥栖へ、犬飼智也が松本、柴原誠、樋口寛規が岐阜、白崎凌兵が富山、柏瀬暁がNASLのニューヨーク・コスモスへ夫々期限付き移籍した一方、柏を退団した三浦雄也、C大阪を退団した村田和哉、鹿島から本田拓也を完全移籍で、Kリーグの水原三星からラドンチッチ、デュッセルドルフへ移籍していた大前元紀を期限付き移籍で獲得。 第1節大宮戦は2-2で引き分け、ゴトビ体制初の開幕戦での得点と勝ち点を得る。しかしその後、横浜FM戦では5-0、広島戦では4-0と大敗する。4月は初勝利となった第5節鳥栖戦を含め無敗で乗り切るものの、5月はリーグ戦2勝3敗、カップ戦2敗と苦戦。 7月、リーグ戦再開後復調。鹿島、甲府、名古屋、鳥栖戦と、ホームでは4試合連続逆転勝利。 最終的にはリーグ戦は9位、ヤマザキナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦敗退。 2014年[編集] チームスローガン:One team, One mission.
2015年10月22日閲覧。 ^ “<清水陥落>(2)赤字出せず選手放出 新制度、編成に足かせ”. 静岡新聞. (2015年10月20日) 2015年10月22日閲覧。 ^ 清水がオランダで慈善試合 義援金は約7億円 スポーツナビ 2011. 4. 14 ^ “<残留への軌跡>(上) ゴトビ体制の崩壊”. (2014年12月8日) 2015年10月24日閲覧。 ^ “清水、ピッチ内外で迷走した末のJ2降格…左伴社長「重みを受け止めている」”. サッカーキング. (2015年10月18日) 2015年10月24日閲覧。 ^ “アフシン・ゴトビ監督 解任のお知らせ” (プレスリリース), 清水エスパルス, (2014年7月30日) 2015年10月24日閲覧。 ^ “大榎克己監督 辞任のお知らせ”. 清水エスパルス (2015年8月1日). 2015年8月1日閲覧。 ^ “田坂和昭 監督辞任のお知らせ”. 清水エスパルス (2015年11月19日).
A. 542 -93 -87 2, 986 1, 213 582 318 873 2, 978 2, 443 1, 139 535 8 11 3, 180 1, 317 577 338 948 3, 166 2, 586 1, 263 580 14 17 3, 457 1, 354 634 373 1, 096 3, 451 2, 907 1, 484 544 6 2 3, 514 1, 226 665 299 1, 324 3, 378 2, 797 1, 378 581 136 71 3, 486 1, 274 744 304 1, 164 3, 567 2, 984 1, 498 583 -81 -80 収益 育成 試合 トップ 女子 販売 3, 118 1, 228 522 237 295 836 3, 191 1, 376 192 195 127 0 1, 301 -73 -77 3, 449 1, 223 623 315 1, 051 3, 324 1, 281 248 215 1, 444 124 129 3, 084 1, 219 523 225 319 798 3, 140 1, 251 208 228 197 1, 256 -56 -40 3, 248 1, 534 539 222 316 637 3, 201 198 220 1, 234 47 3, 142 1, 417 551 309 645 3, 460 1, 526 213 250 1, 246 -318 -310 物販 J2 3, 341 1, 767 494 109 303 350 3, 332 1, 473 177 210 227 226 1, 019 9 37 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 資産[編集] 総資産 総負債 純資産 資本金 1, 167 704 463 550 912 438 474 1, 105 613 491 1, 241 748 493 1, 062 497 564 962 477 485 1, 093 686 407 1, 098 561 537 1, 041 496 1, 015 516 499 970 781 189 905 680 不祥事[編集] 2018年8月3日、2011年からクラブの経理業務を一人で担当していた30代の男性経理担当社員が、チケット代金の売り上げの一部やスポンサーからの協賛金の一部を着服、また経費の架空請求も行い、2012年からの6年間で件数にして約500件、約6, 700万円を不正に着服し高級車や高級腕時計、ブランド衣料の購入などにあてていたことが発覚したことを明らかにし、同社員は7月31日付で懲戒解雇、左伴社長は減俸30%3か月の処分とすることを発表、併せて当該元社員が反省し全額弁済を申し出ていることから刑事告訴は見送る方針であることも公表した[44]。 その他[編集] 2007年、統一教会の創始者である文鮮明が設立した財団法人「鮮文平和サッカー財団」(郭錠煥理事長)の主催していたピースカップに日本のチームとして初めて参加。これについては全国霊感商法対策弁護士連絡会(対策弁連)が抗議書を送付している[45]。なおピースカップは2012年まで行われたが、日本のチームで参加したのは清水のみである。 2019年7月14日・15日に東京ビッグサイトで開催された「eJリーグ ウイニングイレブン 2019シーズン」において、決勝でFC東京を下し、初代王者となった。優勝した清水にはeJリーグ杯と優勝賞金500万円が贈呈された[46]。清水は、優勝賞金の使用用途について「アカデミー活動の充実」と明かした[47]。 注釈[編集] 注釈 ^ 第18節は台風12号の影響で8月29日へ延期となった[27]。 ^ 延期された第18節を含む。 ^ 上記は「B等級基準」であり、これらを満たしていない場合でもライセンスの剥奪はないが、制裁を科すとしており「事実上の条件付き交付」となっている。 ^ 他クラブではFC東京が挙げられる。湘南ベルマーレは2012年まで星を入れていなかった 出典[編集] ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “プロフィール:静岡エスパルス”.
18 ^ 清水エスパルスユース&ジュニアユースユニフォームデザイン決定のお知らせ (プレスリリース), 公式サイト, (2017年2月28日) ^ “株式会社タイカ オフィシャルクラブパートナー契約締結(増額)のお知らせ” (プレスリリース), 公式サイト, (2018年8月17日) 2018年9月18日閲覧。 ^ “株式会社アイ・テック オフィシャルクラブパートナー契約締結(新規)のお知らせ” (プレスリリース), 公式サイト, (2018年4月20日) 2018年5月14日閲覧。 ^ 田中孝一著 清水エスパルス Jリーグへの挑戦 第5章 情熱のゼッケンスポンサー「日本航空です。胸のスポンサードに興味があります」 ^ “【清水】元社員、6700万円着服で懲戒解雇”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2018年8月3日). 2018年8月3日閲覧。 ^ “統一協会主催「2007ピースカップ」に清水エスパルス出場” (日本語).
5haの市所有地が挙げられていた。当初この箇所は1990年に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの市有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案のコンペティションを実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。 周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に静岡県草薙総合運動場陸上競技場、同球技場もあることからなお難航が懸念されており[32]、実際、田辺市長は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時もこの8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から静岡県の川勝平太知事もサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている[33]。 ところが2016年3月になって、川勝知事が新たな移転先の候補地として清水駅周辺を選択肢の一つとして示したと静岡放送が報じた。田辺市長は上記の東静岡駅北口をローラースポーツの施設として一時的に作るための予算を計上したことに3月3日、川勝知事が抗議した。川勝知事はJリーグの舞台で戦うエスパルスと静岡市が中心となってサッカー専用スタジアムを建設すべきとしたうえで、県としてもスタジアムの建設には全面的に協力し、それをするために担当部局に検討するよう指示したという。[34] 2022年3月、ENEOSの清水製油所跡地に収容人員2万5千人超のサッカースタジアムを建設する構想が明らかになった。総事業費は200億円で静岡市や静岡県、地元企業などが共同で拠出する見通しで、2026年ごろの完成を想定している[35]。 2022年10月24日に行われた静岡市の新スタジアムの検討会で、上記のENEOS製油所跡に加え、日本平の改修も検討に入れていることが分かった[36]。 静岡市は検討委員会に対し、候補地の要件として面積3. 5㏊以上の運動公園や遊休地を求め、それを満たす箇所として、上記2か所に加え、貝島スポーツ広場(中部電力所有)、清水ナショナルトレーニングセンター敷地、草薙総合運動場、西ヶ谷総合運動場も候補に挙げていた[37]。 会合ではまず、草薙、西ヶ谷、ナショナルトレセンの3か所は整備のための協議や調整に多大な時間が必要とする理由から除外[37]し、交通アクセス面などを踏まえて3か所(ENEOS製油所跡、貝島、日本平の改修)を選んだが、貝島は騒音問題は工場群にあるため問題はないとしても、交通の便が悪く、自動車来場による、道路の混雑を招くとしてこれも候補から外れ、2か所に絞った。 また静岡市民に対するアンケート(同8月)の結果もまとめており、「新スタジアムに期待すること」のテーマに対して、市民の約8割が「日常使い」と答えたという。また「交通アクセス」「周辺地域活性化」についても75%を超えたという。[38] 候補2か所の利点と課題のまとめ(静岡市出自[36]・[37]) 候補地 現状 面積 メリット デメリット 災害時のリスク 周辺の活性化 周辺への影響 交通アクセス(鉄道駅からの最寄) ENEOS製油所跡地 民有地(未利用のガスタンクあり) 20㏊の一部 駅のすぐ近くであり、交通アクセスが良い 中心市街地に近いため、まちの活性化につながる 騒音対策への配慮が必要 災害リスクへの費用がかかる可能性がある 津波発生時の浸水深2-3m 液状化現象が発生する可能性が大 清水駅前銀座商店街へ300m エスパルスドリームプラザへ1.
日本プロサッカーリーグ. 2020年9月6日閲覧。 ^ a b c d e “クラブ概要”. 清水エスパルス. 2014年4月5日閲覧。 ^ “2017年度(平成29年度)Jクラブ個別情報開示資料”. 2018年8月7日閲覧。 ^ a b c 株式会社エスパルス 第25期決算公告 ^ a b c 株式会社エスパルス 第27期決算公告 ^ a b “スタジアムイベント”. 2013年4月12日閲覧。 ^ a b “マスコット紹介”. 清水エスパルス公式サイト. 2013年4月12日閲覧。 ^ “静岡蹴球物語/3 清水の礎築いた堀田さんの指導 選手育成の制度確立”. 毎日新聞静岡地域版. 2017年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。(2016年1月4日). 2016年1月9日閲覧。 ^ “全日本少年サッカー大会出身Jリーガーは!? 歴史を学ぼう”. サカイク公式サイト (2011年8月11日).
『J2J3フットボール漫遊記』宇都宮徹壱4点送料無料サッカー ... 本多数出品清水エスパルスファジアーノ岡山コンサドーレ札幌セレッソ大阪. お振り込みは ゆうちょ銀行 湘南信用金庫 ヤフー簡単決済 住信SBI銀行
清水エスパルス公式 on Twitter: "8/8北海道コンサドーレ札幌戦、8/19 清水エスパルス公式 · @spulse_official. 8/8北海道コンサドーレ札幌戦、8/19横浜F・マリノス戦 タイ向けプロモーション実施の
エスパス5.5(札幌市豊平区美園五条5丁目)のオーナー様向け情報
、二見宏志がV・ファーレン長崎、清水航平がサンフレッチェ広島F. C、水谷拓磨がAC長野パルセイロ、ドウグラスがヴィッセル神戸へ完全移籍。楠神順平、増田誓志が契約満了で退団。高木和徹がV・ファーレン長崎、六反勇治が横浜FC、髙橋大悟がギラヴァンツ北九州へレンタル移籍。 一方で、アメリカ・デ・カリからネト・ヴォルピ、セアラーSCからヴァウド、名古屋グランパスエイトから金井貢史、大宮アルディージャから奥井諒、ムアントン・ユナイテッドFCからティーラシン・デーンダー、大分トリニータから後藤優介を完全移籍、FC東京から岡崎慎をレンタル移籍、ユースからノリエガ・エリック、川本利誉、市立船橋高校から鈴木唯人、三菱養和SCユースから栗原イブラヒムジュニアを獲得。 クラモフスキー監督就任後2試合でリーグは中断。中断前の二試合こそ、敗れはしたものの今後の希望が見える試合だったが、リーグ再開後は低迷。25節までで連勝はなく、3勝5分け17敗、クラブワーストタイとなる7連敗も記録した。 シーズン途中の11月にクラモフスキー、今矢コーチ、安野フィジカルコーチと契約解除。コーチである平岡宏章が監督就任。平岡は初陣からチームを勝利に導き、9試合で4勝2分け3敗を記録。33節終了時点では最下位だったが最終節で2位のガンバ大阪に勝利し、同日に行われた勝ち点1・2差で16位・17位に着けるベガルタ仙台と湘南ベルマーレの直接対決が引き分けとなったため本来ならJ2プレーオフ勝者との入れ替え戦を行う16位でシーズンを終了、失点数は前シーズンを上回りJ1チーム最悪の70失点となった。 2021年[編集] チームスローガン:PENETRATE 突き破れ。 新監督に前C大阪監督のミゲル・アンヘル・ロティーナが就任。平岡監督はコーチへ復帰した。 吉本一謙が引退。ティーラシンがBGパトゥム・ユナイテッドFC、ファン・ソッコが鳥栖、金井貢史が甲府、六平光成・西村恭史が北九州、川本梨誉・梅田透吾が岡山、西部洋平が富山、平墳迅がJFLの鈴鹿ポイントゲッターズ、伊藤研太が沖縄SVへ移籍。ネト・ヴォルピ・ジュニオール・ドゥトラは退団した。 その一方で積極的な立ち回りを見せ、CDサンタ・クララからチアゴ・サンタナ、コリチーバFCからウィリアム・マテウス、ポルティモネンセSCから日本代表GK権田修一、C大阪から片山瑛一、大分から主将鈴木義宜、鳥栖からU-23日本代表MF原輝綺、北九州から昨季J2得点ランキング2位のディサロ燦シルヴァーノ、横浜FCから中山克広、湘南から指宿洋史、松本から永井堅梧を獲得。 大型補強を展開したシーズンであったがチームは低迷。6月に広島から井林章、7月にFCチューリッヒからベンジャミン・コロリ、CRフラメンゴからホナウド、8月に鳥栖から松岡大起、神戸から藤本憲明を獲得。 第34節FC東京戦で4対0と大敗し、3連敗を喫した翌日の11月4日、ロティーナ監督、イヴァン・パランコヘッドコーチ、トニ・ヒル・プエルトフィジカルコーチ、小寺真人分析兼通訳との契約を解除し、再び平岡宏章監督が就任する事を発表した。最終節のセレッソ大阪戦で勝利を収め最終順位は14位。シーズン終了後、平岡監督が2022シーズンも続投すると発表された。 2022年[編集] チームスローガン:HERE GOES! 平岡体制2年目。 高木和徹が東京ヴェルディ、中村慶太が柏レイソル、金子翔太がジュビロ磐田、石毛秀樹がガンバ大阪、指宿洋史がアデレード・ユナイテッド、奥井諒がVファーレン長崎、河井陽介がファジアーノ岡山にそれぞれ完全移籍した。 その一方で柏レイソルから神谷優太、徳島ヴォルティスから岸本武流、鹿島アントラーズから白崎凌兵が完全移籍で加入した。SC相模原から成岡輝瑠、ギラヴァンツ北九州から高橋大悟、鈴鹿ポイントゲッターズから栗原イブラヒムジュニアがそれぞれ復帰した。 5月には千葉寛汰がFC今治、加藤拓己がSC相模原、栗原イブラヒムジュニアが福島ユナイテッド FC、菊地脩太がVファーレン長崎へそれぞれ育成型期限付き移籍した。 チームは5月終了時点でわずか2勝と自動降格圏の17位に低迷。5月29日の柏レイソル戦で敗戦後の翌日に平岡監督を解任。後任にはブラジル2部のヴァスコ・ダ・ガマで指揮を執っていたブラジル人のゼ・リカルドが就任。 6月にファジアーノ岡山から梅田透吾が復帰し、SKラピード・ウィーンから北川航也が3年ぶりに復帰。7月には新外国人選手としてフォルタレーザFCからヤゴ・ピカチュウを獲得し、さらに6月にC大阪を退団した元日本代表の乾貴士を獲得した。 成績[編集] タイトル[編集] 国際タイトル[編集] アジアカップウィナーズカップ :1回 2000年 国内タイトル[編集] J1リーグ 2ndステージ:1回 1999年 Jリーグカップ:1回 1996年 天皇杯全日本サッカー選手権大会:1回 2001年 スーパーカップ:2回 2001年、2002年 表彰[編集] Jリーグ MYアウォーズ Jリーグカップ 最優秀選手 (MVP) 1996年 カルロス・サントス ニューヒーロー賞 アジアサッカー連盟(AFC) その他受賞[編集] 日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー) 1999年 澤登正朗 日本プロスポーツ大賞 クラブ記録[編集] 連勝記録[編集] J1リーグ戦 9試合 【1993年7月31日 NICOS第2節 対広島 - 1993年11月6日 NICOS第10節 対広島】 9試合 【1994年3月26日 サントリー第5節 対V川崎 - 1994年4月30日 サントリー第13節 対平塚】 J2リーグ戦 9試合 【2016年10月2日 第34節 対C大阪 - 2016年11月20日 第42節 対徳島】 連敗記録[編集] 7試合 【1996年5月4日 第12節 対浦和 - 1996年9月7日 第18節 対V川崎】 連続無敗記録[編集] 13試合 【2009年7月4日 第16節 対京都 - 2009年10月3日 第28節 対広島】 J1リーグ戦ホーム 22試合 【2008年7月20日 第18節 対新潟 - 2009年10月3日 第28節 対広島】 連続未勝利記録[編集] 10試合 【2015年8月12日 2nd第8節 対湘南 - 2015年10月24日 2nd第15節 対柏】 最多得点記録[編集] 6-0 【1998年9月12日 2nd第4節 対福岡】 6-3 【2001年10月13日 2nd第8節 対神戸】 6-3 【2010年8月1日 第16節 対湘南】 6-4 【2013年10月19日 第29節 対鳥栖】 6-0 【2019年9月29日 第27節 対湘南】 8-0 【2016年5月28日 第15節 対群馬】 最多失点記録[編集] 0-8 【2019年8月17日 第23節 対札幌】 連続得点記録[編集] 21試合 【2009年5月5日 第10節 対千葉 - 2009年10月25日 第30節 対FC東京】 連続失点記録[編集] 16試合 【2005年7月13日 第16節 対FC東京 - 2005年11月20日 第31節 対柏】 連続無失点記録[編集] 6試合 【1993年8月4日 NICOS第3節 対横浜M - 1993年8月28日 NICOS第8節 対V川崎】 個人記録[編集] リーグ戦通算出場記録[編集] ※2020年2月現在。J2リーグの出場も含む。 ※試合数は清水エスパルス在籍時のみを記載。[要出典] リーグ戦通算最多得点[編集] 85得点 - 澤登正朗 【1993-2005】 リーグ戦シーズン最多得点[編集] リーグ戦シーズン連続得点[編集] 13シーズン - 澤登正朗 【1993-2005】 リーグ戦連続試合得点[編集] リーグ戦連続試合出場[編集] 145試合 - 真田雅則 【1995年-2000年】 リーグ戦連続無失点[編集] 731分 - シジマール 【1993年】 リーグ戦最年少出場[編集] 17歳7ヶ月 - 石毛秀樹 【2012年】 リーグ戦最年少得点[編集] 18歳5ヶ月 - 石毛秀樹 【2013年】 リーグ戦最年長出場[編集] 39歳11ヶ月 - カルロス・サントス 【2000年】 リーグ戦最年長得点[編集] 39歳7ヶ月 - カルロス・サントス 【2000年】 記念ゴール[編集] J1リーグ記録 J2リーグ記録 15, 000得点目 - 鄭大世【2016年7月24日 J2第25節 対千葉】 クラブ記録 ハットトリック[編集] 3得点 国際Aマッチ・個人記録[編集] ※各国代表選手の記録は、清水エスパルス在籍時のみを記載。 国際大会・優勝メンバー FIFAワールドカップ 優勝 1人 1994年 ロナウド AFCアジアカップ 優勝 5人 国際大会出場選手[編集] FIFAワールドカップ[編集] オリンピック代表[編集] オリンピック日本代表 1996年アトランタオリンピック DF:白井博幸 MF:伊東輝悦 FW:松原良香 2000年シドニーオリンピック DF:森岡隆三 (オーバーエイジ枠) 2004年アテネオリンピック GK:黒河貴矢 2008年北京オリンピック GK:山本海人 MF:本田拓也 FW:岡崎慎司 2012年ロンドンオリンピック MF:村松大輔 年代別代表[編集] U-20W杯日本代表 1997 FIFAワールドユース選手権 DF:戸田和幸 2001 FIFAワールドユース選手権 DF:池田昇平 2005 FIFAワールドユース選手権 2007 FIFA U-20ワールドカップ GK:武田洋平 U-17W杯日本代表 2001 FIFA U-17世界選手権 DF:高山純一 (清水エスパルスユース) MF:杉山浩太 (清水エスパルスユース、第3戦で追加登録) 2011 FIFA U-17ワールドカップ MF: 石毛秀樹 (清水エスパルスユース) 2013 FIFA U-17ワールドカップ MF: 水谷拓磨 (清水エスパルスユース) エスパルス栄誉賞[編集] クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。 1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧 2000年 カルロス・サントス 2002年 大榎克己 2005年 真田雅則 2006年 澤登正朗 2010年 伊東輝悦、市川大祐 2014年 齊藤俊秀 引退試合[編集] Jリーグ引退試合[編集] S-PULSE ALL STARS vs JAPAN ALL STARS 2007年1月21日 『鈴与グループPRESENTS 澤登正朗引退試合』 2018年1月8日 『鈴与グループPRESENTS 市川大祐引退試合~THANK YOU FOR FOOTBALL~』 スタジアム・練習場[編集] ホームスタジアム[編集] ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(正式名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)[1]。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)でも試合を開催していたが、2015年を最後に使用実績がない。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照。 練習場[編集] 練習場はエスパルス三保グラウンド[1]、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用[29]。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。 新スタジアム構想[編集] IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない[30]。 スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。[注 3] 現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。 エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を2014年7月、同市長の田辺信宏に対し要望書を提出した。田辺のこのスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指していた[31]。 有力な候補地として、葵区にあるJR東海東静岡駅北の約2.
清水エスパルス アビスパ福岡 住む | Profile - The Freebird Club 主導権握るサッカーを」“途中交代”清水エスパルス ゼ リカルド https://www.youtube.com › watch 対象者は 福岡 市内に 住む 北海道コンサドーレ札幌.
